はじめに
初めまして!
本日は私のWebサイトにお越しいただき、ありがとうございます!
2年前までWEB知識なし、スキルなし、唯一あるのは学生アルバイトでもできる飲食店での接客経験だけ。加えて週7ワンオペ育児と家事、本業と毎日が戦争状態。
そんな毎日を変えたくて、WEBでできる副業を開始するも自己流で大失敗し2年間で収益はゼロ。 そんな状態にも関わらず勢いで10年勤めた会社を退職して、フリーランスに転向。 転向後も3ヶ月無収入の状態が続き、極貧生活を経験した34歳のワーママ。
それがこのサイトの管理人みさです。笑
「接客経験しかないのにWeb業界で副業に挑戦?」
「仕事、育児、家事でただでさえ忙しいのに副業?」
「収益が発生していないのに、退職??」
ツッコミどころ満載ですよね。笑
今思えば無謀だったと分かるのですが当時の私は、「人生を変えたい」その一心で
実績ゼロで会社員を辞めることがどれだけ大変かということに全く気づいていませんでした。
そんな私ですが、現在では月収30万を達成し毎日在宅でお仕事ができています。
ここまでくるのも一筋縄ではいきませんでした。
そんな私が2年前に戻りやり直しができるなら
1年後に副業で月収10万円、3年後には月収30万を達成して会社員卒業を目指します。
このブログを読んでくださっているあなたには私と同じような危ない道を渡るギリギリフリーランスをではなく、足元しっかり固めて地に足をつけて確実に稼げるフリーランスを目指してほしい。そんな思いでこのサイトを運営しています。
自己紹介ではなぜ私の失敗体験を赤裸々に公開し、月収30万を達成するまでにどんな道を歩んできたのかご紹介しますので、ぜひ最後までご覧ください!
基本情報
名前:みさ
生年月日:1990年1月
家族構成:転勤族の年下夫と4歳娘のママ
職業:フリーランス
職歴:焼肉屋の営業8年→営業事務2年
現在はオンライン秘書としてWebスクールの企画・設計・運営やインフルエンサーさんのコミュニティーのバックオフィスとして活動中
幼少期〜小学生時代:「寂しい」がわからないまま永遠の別れ
私は、ごく一般的な家庭の1人娘として生まれました。
ですが、父の記憶はほとんどありません。
唯一覚えているのはテーマパークで順番待ちができず怒られたことと、
白い箱の中でたくさんの花に囲まれて眠っている父の姿だけです。
「父の突然死」
そう、「死」が何を意味するのかもわからないまま、
わずか5歳にして永遠の別れが訪れたのです。
残酷なことにその日のことは鮮明に覚えています。
幼稚園のお遊戯会の練習中に顔面蒼白な母が突然お迎えに来て、何も言わずに私の手を引きタクシーに乗り込んで向かった先は病院。
「なんで黙っているの?」
「どこに行くの?」
「どこか痛いの?」
車内では何を聞いても母は答えてくれませんでした。
病院に着いた後の記憶はありません。
ナースステーションに預けられたような気はするのですが、その後の母の表情やその日家に帰ったのかさえ覚えていません。
お葬式で真っ黒な服を着た母や見知らぬ人たちが泣いているのを見て、初めて父がどこか遠いところに行ってしまうということがわかりました。
そこから、母と私の二人三脚での生活がスタートします。
親戚は遠方で頼れない。母は専業主婦でしたが、2人で暮らしていくには働きに出るしかありません。父の急死によって母と私の生活は一変しました。
いつも家にいた母親が仕事で帰ってこない。
周りの友達が放課後真っ直ぐ家に帰る横で学童に向かい、自分で家の鍵を開けて真っ暗な家に帰る生活。そして真っ暗な家で1人で食べる夕飯。
忙しい母に気を遣って、言いたいことがあっても言えない。
自分では覚えていませんが、ランドセルを背負ったまま真っ暗な部屋でソファーで寝ていることもあったそうです。
父がいなくなってから、母は私の前では泣いたり、弱音を吐いたり一切せず私に不自由な思いや寂しい思いをさせまいとなんでもしてくれました。
本当にありがたいことに大企業の役職者だった父が残してくれた家と資産、遺族年金で不自由な暮らしを強いられることはありませんでしたが、埋められない寂しさは物や忙しさで埋められるようになり、家族の思い出で埋められることはありませんでした。
自分の家庭環境が友達の家とは少し違うということは小学校2年生ごろにはわかりました。
今思えば経済的な不自由をすることもなく育ててくれたことに感謝の気持ちでいっぱいですが、当時の私は何でもしてくれたり、物を買ってくれることに対して申し訳なさや罪悪感しか感じられませんでした。
次第に私は迷惑をかけないようにしよう。負担にならないようにしよう。と考えるようになり、母に自分の意見を伝えられなくなりました。
怒られても一言も反論せず、ずっと黙る。
「言いたいことあるならいいなよ!」と言われてもずっと黙る。
時間だけが経過し、絞り出して感じたことを伝えるも余計に怒られる。そして黙る。笑
幼少期の頃の記憶、それも楽しい記憶が全くと言っていいほどない。
いつも母の機嫌を損ねることなく、言うことを黙って聞いて平和にやり過ごそうとする日常。これが私の幼少期です。
中学生〜高校生時代:部活に青春を全振り
父を亡くした母は私を一人前にしっかり育てるという責任感から教育にも力を注ぐようになります。
「きちんとした学校で教育を受けてほしい」そんな母の意思で地元の中学校ではなく、家から1時間ほどの中学校を受験。
母の意思で通っていた塾では真面目に学習に取り組まなかったので、唯一合格した名前を書けば入学できると噂の中高一貫の私立お嬢様学校に通うことになります。 (もちろんこの学校も母が選びました)
全ての判断は母に任せていた私ですが、唯一自分の意思で決めたのが部活です。
選んだ部活は吹奏楽部。
県内でも名の知れていた強豪校だったので練習内容や指導はかなり厳しかったですが、6年間部活を続けることとなります。
人生で初めて自分で選択する喜びと、仲間とひとつのものを作り上げる喜びを知ったのはこの経験からです。
この部活漬けの毎日と反抗期により母との会話はみるみる減っていきました。
帰宅時間が遅くなったり帰る時間を連絡しないだけで怒られる、成績が下がると「せっかく私立に入れてあげたのに…部活しかしないんだったら公立でもよかったね」と嫌味を言われ、「自分が勝手に私立に入れたんじゃん…」と思うも言葉にすると母の怒りを買ったり、期待を裏切ることになると思っていたので言葉にせず不機嫌な態度を取り続けていました。
大学生〜社会人:初めての一人暮らし
とにかく母の元から離れたいそんな思いが強くなる一方で、私が家から離れてしまったら母が1人になってしまう。そんな思いもあり、一人暮らしには踏み切れず指定校推薦がもらえた県内の情報系の大学に進学。
6年間の部活をやりきり、規則や時間の制限が一気になくなり開放的になった私は中高時代にできなかったことを取り戻すように遅れてやってきた青春を謳歌。笑
この頃にはさすがの母も連絡さえすれば特に何も言うこともなく(恐らく諦めていた。笑)
私も何も言われないことをいいことに自由を楽しみました。
ですが就職活動が始まり私はある壁にぶつかります。
自分で自分のことが決められない。
これまでの人生の重要な選択を自分ではなく母に任せ「今」を生きてきたのでやりたいことがわからないのです。
なんとなく就職活動を始め会社説明会に参加するもどれもピンとこない。
6年間の部活とアルバイトリーダーをしていた経験くらいしか自己PRが書けないのです。
次第に自分でもできそうな飲食店営業の説明会に絞って参加するようになり、ある会社の理念と社風、そこで働く人に魅力を感じ、特に深く考えずに一目惚れで選考を進めあっさり内定を獲得。
特に母に相談もせず選考を進めていたので、飲食の会社の選考を進めていたことも、その会社がどんな会社なのかも、内定をとれたことも、配属先によっては一人暮らしを始めることも全て事後報告。
何の相談もなしに大きな意思決定をした私に母はあまり喜んでくれませんでした。
全国転勤あり、店舗の営業は深夜までという労働環境に加え、高いお金を払って中学校〜大学まで私立に通わせたのにも関わらず就職した先は水商売のイメージが強い飲食店。
反対を押し切ってまでいく会社だとはとても思えなかったんだと思います。
4月が近づくにつれてとても機嫌が悪く何か言いたそうにしていましたが、私はそんな母を見てみぬふりをして家を出て念願の親元を離れての生活がスタートします。
飲食店営業時代:決められないキャリア
配属されたお店は焼肉の食べ放題の業態。
週末のピークの時間帯ともなるとテーマパークの人気アトラクション並みの待ちが出るほどのお店でした。
とにかく転勤が多い会社で10年間で通算9回転勤を経験。
怒涛でしたが一緒に働く人に恵まれ、仕事に熱中する毎日。毎日がとても楽しく充実していました。
とんとん拍子で昇格し2年目には副店長になり順調にキャリアアップしさらに仕事に打ち込み、母の顔色を気にせず自由にできる暮らし。順風満帆なワークライフでした。
ですがこの後またも自分で決められないことの壁にぶつかることになります。
昇格の意思決定ができない。
上司からことあるごとに店長昇格を促されましたが、自分がどうしたいのかがわからず前に進めなくなっていました。結局ひょんなことから店長昇格を果たすことになるのですが、昇格するか?しないか?という問いへの回答に3年も要したのです。
飲食店店長時代:大きな挫折
店長に昇格してからは挫折の毎日。
店舗の営業に加え、売上管理、人身掌握、教育、在庫管理、シフト管理など重い責任がのしかかってきました。
長時間労働・時間外労働は当たり前でピークは18時間労働、3時間睡眠で眠い目をこすりながら出勤。
毎日のように届くクレームへの対応。
人が揃えられず、休日出勤を続け最後に丸一日休んだのは記憶にない。
ギリギリの毎日で心身共に疲弊しきっていましたが、自分が頑張った分だけ店舗の数字やお客様の反応として結果が返ってくる店長というお仕事にやりがいは感じていたので、学生時代の部活で培った我慢強さと責任感でなんとか乗り切っていました。
そんな生活が1年半続いたある日事件は起こります。
酔ったお客様が提供遅延により大激怒。大学生アルバイトの男の子の胸ぐらを掴み、罵声を浴びせ店内が騒然。
責任者として前に出ないわけにはいきません。
お客様とお話をしようとするも興奮状態で更にヒートアップ。
その瞬間一気に色んな感情が湧き上がりました。
他人に対してここまで怒りを露わにする人がいることへの驚き、
店側の至らなさでお客様のお食事の場を台無しにしてしまったこと、
周りのお客様を驚かせてしまったこと、
何よりどんなに罵声を浴びせられても、手を出すことなく耐えたアルバイトへの申し訳なさ…
この事件をきっかけに今まで溜め込んでいた感情がドッと溢れ出し、過呼吸・パニックに。
「私は店長には向いていない」
「私がダメだから従業員もお客様も守れなかった」
ひたすら自分を責め続けました。がむしゃらに頑張っていたはずだったのにこんな形で終わりを迎えるなんて…この日を境にお店の看板を見ることも、ましてや店内に入ることにも恐怖を感じるようになり店長を辞めざるをえなくなったのです。
こうして私はハードだけどやりがいを感じていた大好きな店舗での営業から離れざるを得なくなり、少し休んだのちに本社の営業事務の部署に異動することとなります。
突然の妊娠と出産:大きな転機
異動して間も無くお付き合いしていた現在の夫との間に予想外の妊娠が発覚!
想定外すぎる妊娠に正直喜びよりも驚きの方が勝っていました。
この突然の妊娠は私の働き方を大きく変えることとなります。
妊娠期間中は想像していたものより壮絶なものでした。
初期はつわりが酷すぎて、とても仕事ができる状態ではなく異動させてもらったばかりなのに休職を申し出て1ヶ月家で吐き気と戦う日々。
落ち着いたと思ったら、検診でお腹の中の赤ちゃんに疾患があると宣告を受けました。
出産後は即手術、入院、その後も通院が確定していて、その後も通院が必要で障害が残るかどうかもわからない。お医者さんから産むか、堕すかの選択を迫られたのです。
自分の中では堕す選択肢はありませんでしたが、治療を受けるのは赤ちゃん。私ではない。
そして夫と何度も何度も話し合い出した答えは「出産する」でした。
大きい病院で検診を受ける必要があり、家から1時間半かかる病院で出産することが決まりました。
仕事では上司や周りの人に恵まれ、身体に配慮してもらいながらできる営業事務のお仕事をさせていただきました。自分の都合を会社に伝えることにかなり抵抗がありましたが、私とお腹の中の赤ちゃんを最優先にできるお仕事を与えてくれた職場には感謝の気持ちでいっぱいでした。
そして2022年6月、予定より1ヶ月早く帝王切開で無事出産!
娘は顔を見ることもなくすぐに手術室に連れてかれてしまい、顔を見たのは出産して3日後。
1600gとあまりにも小さく、生まれてすぐの身体にはたくさんの管が繋がれている我が子を見た時は涙が止まらず、この子を絶対立派に育てると決意した瞬間でした。
娘は私の2ヶ月遅れで退院し、里帰りして実家で娘のお世話をする生活がスタート。
最初は寝不足となれない育児でそれどころではありませんでしたが、半月も経った頃には母から細かい嫌味を言われるようになります。
幼少期の頃に感じていた思いが再度蘇ります。
自分なりに色々やりたいのに、頼んでもないことをあれもこれもとしてくれる母の存在が鬱陶しい…
本来であればご飯作りも家事もない環境に感謝すべきだったと思いますが、とてもそんな気持ちにはなれませんでした。
そして1ヶ月が過ぎたある日、大変でもいいから離れたい一心で家に戻ることを決意しました。
理想と現実:こんな生活耐えられない…
自宅に帰ってからは子育てに奮闘しながら、家事もこなし、自由気ままに育休ライフを楽しんでいました。
ですが、段々と生活に物足りなさを感じるようになります。
娘と一緒にいる時間も楽しいけど、ママだけするのはイヤだ。
前のように大好きな仕事で活躍したい。早く仕事復帰したい!
そんな思いに気づいた頃に新型コロナウイルスの流行。
飲食の会社の社員である私も当然の如くその影響を受け、結局2ヶ月育休を延長して元いた部署に仕事復帰しました。
念願の仕事復帰!とてもワクワクしていました。
最初は仕事も育児も家事も全部両立するぞ!と息巻いていましたが長くは続きませんでした。
あんなに楽しみにしていた仕事にやりがいを感じない。
与えられる仕事はいつ子供のお迎えがあって、抜けることがあっても支障をきたさないようなお仕事。時短勤務で働く時間も少なくなったのに、求められる基準はフルタイム社員と同じ。
家庭では私と同じく飲食店勤務の夫とは生活リズムが真逆。
手伝ってほしいと思う時に限って仕事でいません。
子どもの体調不良は私しか対応できない。
夫は仕事で疲れ切って家事は全くしてくれない。
不満とストレスがのしかかるばかりの日々。
あと何年この生活が続くの?
このままこの生活が続くなんてとても耐えらえない!!
何かを変えなければ!そんな思いで転職活動をしてみるも
飲食経験のみ、時短勤務希望の私に紹介されるお仕事はパートタイムの飲食のお仕事のみ。
会社の外に目を向け、初めて社外での自分の価値の無さを思い知らされた瞬間でした。
そんなある日ちょうど娘と同級生の子供を産み、仕事と家庭の両立に悩む友人からある報告を受けます。
「私起業しようと思う」
起業??
会社員やパート・アルバイト以外にそんな働き方の選択肢があるなんて初めて知りました。
それから#起業#女性起業家をInstagramで検索しまくる日々がスタートします。笑
出会いと自己投資:家事+週7ワンオペ育児+本業+副業
検索を続け続け、起業という選択肢を与えてくれた友人とも情報交換をしているうちにある起業家さんと出会います。
自分が欲しいと思っている「精神的にも経済的にも自由でゆとりがある生活」を手にして、楽しくお仕事している姿に憧れを抱き「私も同じようになりたい!」と思うのには十分すぎるものを持っている方でした。
数日悩んで、その起業家さんの商品を買うことを決意。
人生初の多額の自己投資です。震える手で53万を入金しました。
まずは副業で稼いでから、いずれは会社員をやめて私も起業家さんと同じように自由でキラキラした生活を送るぞ!
そんな気持ちで私の副業人生はスタートします。
自分で決めた学びの時間は楽しく、毎回新しい発見の連続でした。
人生で初めてとも言える自己分析から始まり、インプット、インスタでの投稿…
本業より楽しく、この先にどんな未来が待っているのかと想像するとワクワクが止まらない。
寝る間も惜しみ、通勤時間や隙間時間は全て学びに費やしました。
ですが、数ヶ月経っても思っていた理想の自分に近づけていないことに焦りと不安を感じ始めました。
そしてただでさえ家庭と仕事の両立で忙しく余裕がなかったところに、更に副業を始めたことによる、歪みが家庭内に現れます。
副業がうまくいかないもどかしさを全く関係のない夫や娘にぶつけるようになりました。
次第に家庭内からは笑顔が消え、不穏な空気が漂うようになります。
現状への不満と自己投資したのに変われない不安から次々と自己投資をするも挫折、でも諦めきれずにまた自己投資…独身時代に稼いだお金はあっという間に底が見え崖っぷち状態。
気づけば1年間で150万以上の投資をしていました。
そんな崖っぷち状態で夫から言い渡された突然の単身赴任。
イヤイヤ期真っ盛りの娘と2人での生活が半年以上続きました。
更に余裕は失われ、毎日朝から晩まで娘に怒鳴り散らし手を出しそうになることもしばしば。精神的にギリギリの状態でした。
大泣きしながら児童相談所に電話したり、辛すぎて朝5時に夫に大泣きしがら電話してヘルプを求めるも現状は変わらない。
生活を豊かにしたくて始めた副業がかえって私を苦しめている。
もう辞めた方がいいのかな?
そんな思いがよぎった頃、夫の単身赴任も終わりを迎えまた家族3人の生活が始まりました。
そして転機となる出来事が起こります。
感染病と決意:私が本当に求めていた理想とは
一家全員で感染病にかかり1ヶ月自宅療養。
体調不良から気持ちも弱くなり、張り詰めていた糸がプチンと切れました。
もう何もしたくない。何もかもどうでもいいや。
半ば投げやりな気持ちで全てを放棄。本業も副業も全てお休みしました。
幸い全員症状は軽く、療養中でしたが家族水入らずで本当にのんびり自由気ままに過ごしました。
仕事せず、家事もゆるっと好きな時にして、夫と娘と食卓を囲み、3人で暇つぶしに1000ピースのパズルをする。療養中にも関わらずこんなに楽しく穏やかな時間を過ごしたのは本当に久しぶりでした。
あ、私こういう生活がしたいんだ。
家族が揃って食事を囲み、たわいのない時間を共有する生活がしたいんだ。
キラキラした起業家さんに憧れていたけど、違かった。
私の本当の幸せは家族3人で過ごす時間ということに、副業開始して約1年半経ちようやく気付いたのです。
このままじゃダメだ。
全てを完璧に両立するのは今の私には難しい。
何かを手放さないと私の人生何も変わらない。
答えは決まっていました。
本業をやめよう。
何1つ副業で成果は出せていませんでしたが、
母と私が叶えることができなかった「家族3人での普通の暮らし」を叶えたい。
その気持ちを退職届とともに会社に提出。
半年かけて上司を説得して2022年6月、新入社員から10年勤めた会社を退職しました。
フリーランスの洗礼と後悔、そして現在。
会社員という働き方を手放し、私は自由な時間を手に入れました。
やりがいのない仕事からの解放。
毎朝の満員電車から解放された喜び。
体力的にも、精神的にもゆとりが生まれ、正直浮かれていました。
よし!あとは仕事をとって収入を得られるようになったら完璧だ!
WEBスキルをしっかり身につけて、地に足つけて実践的な学びをしたい!
そんな時に出会ったオンラインスクールがリモラボです。
「これが最後のチャンスだ。」
そう思い、退職金を注ぎ込みお支払い。
(多額の自己投資をし続けたおかげで何の抵抗もありませんでした。笑)
リモラボ入会後は自己分析から始まり、マインドセット、SNSの基本など基礎を徹底的に固めていきました。 そして学んでいくうちにあることに気づきます。
「頑張る方向を間違っていたんだ。副業初期にこれを学べていれば、こんなに苦労しなくて済んだのに。」 一番最初に学んだ起業家さんには申し訳ないですが、率直にこのように感じました。
そして3ヶ月無収入の状態で学びを続けました。
ありがたいことに少しずつお仕事をいただけるようになってきましたが、月3万にも満たず次第に将来への不安が募り始めます。
そして不安は現実となり、片道200円のバス代を出すのを渋り、友人からの遊びの誘いはお金がないからという理由で断り、親からお金を借り、子どものために貯めていた貯金を切り崩す生活がスタートします。
会社員を勢いで手放した代償はあまりに大きく、10年間毎月お給料が入ってくる環境にいた私にとってとてもしんどい時期でした。
そしてついに働いている認定をされず、このままだと娘が通っている保育園を退園しなければならないというところまでやってきました。
もうなりふり構っていられる状況ではありません。
週5でカフェでアルバイトをしながら、オンラインでできそうなお仕事は単価がどんなに低くても全て受け、寝る間も惜しんで今できることに集中。ギリギリのところでなんとか保育園退園の危機は免れました。
ポジティブな捉え方をすれば後に引けない状況下に自分を追い込めたからなんとかできましたが、副業である程度基盤を作っておければこんなに苦労しなかったはず。
自分の考えの甘さを痛感し、お仕事への姿勢を見直すきっかけとなりました。
そんな気づきを得てからはご縁に恵まれ紹介やスクール内のお仕事に挑戦できる機会を得ることができ、その中で活躍の幅を広げていったことで収入を上げていくことができ、気づけば会社員の給料越えを達成!副業開始から3年半。ようやく努力が報われた瞬間でした!
「家族3人での普通の暮らし」手に入りそうで入らないこの暮らしを手に入れるのに随分と遠回りしましたが、生活や気持ちにもようやくゆとりが生まれ、現在では週2回夫がお休みの日に家族3人で夕飯を共にする時間を取ることができています。
次なる目標は毎週末家族3人で休日を共に過ごしゆっくりする時間を取れる生活。
自分の活動範囲を拡大し、目標達成するために現在はWEBマーケティングを学んでいます。
このブログには私の失敗談を赤裸々に公開し、読者の方が同じ失敗をせず、1年後に副業で月収10万円、3年後には月収30万を達成して会社員卒業するためのノウハウやロードマップを公開していきます。
私のように仕事は好きだけどライフイベントによって働き方に悩んでいる方、現状を変えたいけどスキルも経験もなく一歩が踏み出せない方、家族との時間を大事にした働き方を叶えたい方、そんな方たちにこそ読んでいただきたいです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!